日常にしがみつきながら、
コラム

私が演劇をはじめたころには、「日常がずっと続くのが当たり前、そこからの脱却をどう図るか」がひとつの社会的風潮だったと記憶しています。
言ってみれば、日常が、ゆるかった。
宮台真司氏の「終わりなき日常」という言葉が象徴する時代に思春期をむかえ、もちろん思春期特有の迷走はありながらも、個人的にはその頃の日常はまだまだゆるかったです。
そこから、地下鉄サリン事件、アメリカ同時多発テロと、だんだん「ゆるい日常」があやうくなる出来事が続き、2011年の東日本大震災で、決定的に「ゆるい日常」は一度消え失せた実感がありました。
でも、そんなもんじゃなかったです。今にして思えば。
いわゆる「コロナのあの頃」から、ここ数年の現実世界での様々な出来事、混迷としか言いようがない2025年現在の日本や世界の社会情勢を目の前にして、ただただ、無力。
もう、「ゆるい日常」とか言っていられません。
「この事態に、この時代に、演劇に何ができるか」
これまでに幾度となく立てられてきた上記の問いも、無力感が強すぎて、もはや白々しさすら感じられてきます。
「劇場の灯を消してはいけない」どころか、演劇の灯火そのものすら薄らぼんやりしている瞬間が、私の中に確実にあります。
ちょっとだけ元気になろうと、安いステーキを食べたり、スーパー銭湯に行ってみたりしますが、それはただの現実逃避。
「この事態に、この時代に、演劇に何ができるか」
感覚と言語化のアップデートをする余裕もないような体たらくではありますが、それでも、ファミレスでコーヒー飲みながらパソコンひろげるくらいの日常は、まだあります。
願わくば、この日常にしがみつきながら、演劇の灯火を信じて、もう少し遠くまで出かけていきたいとは思っています。
櫻井拓見
