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【理事長通信】
追悼 瓜生さんのこと
流山児祥

協会最長老であり、第五代理事長を務めた瓜生正美さんが6月27日逝去された。瓜生さんは、激動の昭和・平成・令和の時代を生き抜き96歳の《大往生》を遂げた。22歳で父を亡くした私にとって瓜生さんは「演劇界の父」と呼ぶべき存在でした。
熱い演劇への志を持った九州男児という言葉がふさわしい24歳年上のオヤジの想い出を綴る「理事長通信」です。

瓜生さんと初めて会ったのは1991年3月、私達が「反戦演劇人の会」を組織し、湾岸戦争反対渋谷デモを敢行した際の瓜生さんからの「共闘表明」だった。私が、日本演出者協会に入会したのは、その3か月前の1990年12月の協会忘年会である。文化庁在外研修のため、43歳での入会だった。千田是也理事長に推薦書を書いてもらい1993年1月~4月ロンドンで研修した。和田喜夫さんも同じような経験をしている。この「お礼奉公」で、その後30年協会に携わっている、と言っても過言ではない。この時代、数多くの小劇場の演出家が入会した。

1993年冬、北京で開催された中国小劇場フェスティバルに協会メンバーが招待され、瓜生さんと一緒に旅した。西川信廣さんとわたしがツアー事務局長、入会したての坂手洋二さんは、初の海外経験だった。70歳の最長老(瓜生さん)と30歳の最若手(坂手)は同部屋で、呑み会部屋となった。酒宴の中心は瓜生さんだった。当時、瓜生さんは、連日素振り2百回の肉体で、凍てつく万里の長城を軽やかに走破し、私達を驚かせた。「俺の肝臓は20代だ!」と豪語し、朝から、迎え酒をわたしたちに奨めて閉口した。そんな姿も、私の父にそっくりだった。福岡・熊本で開催される演劇大学in九州では、終身学長を務め、若手育成に貢献、若手演出家の良き師であった。九州演劇の生字引から様々なコトを吸収した。イマを、人生を愉しむ、この豪放磊落な硬骨漢は老いを知らず、私たちの最前線を元気に30年疾走しつづけた。 

1924年福岡県若松市(現在の北九州市)生まれ瓜生正美の96年の実人生には圧倒される。演劇の原点は五高(旧制第五高等学校)の戯曲研究会。4歳の時から剣道少年で軍国少年。1944年、学徒出陣で兵役に就く。8月9日長崎の原爆被災地で、瓜生さんは「真新しい軍手を支給され爆心地へ行って黒焦げの死体を手で掴んでトラックに積み込み」第二次被爆者となる。敗戦後から今日までの自らの信条を、協会機関誌「D」で、瀬戸山美咲さんに応えて、こう語っている(私も同席)「僕はあの戦争を大東亜民族解放の聖戦だと信じていて、天皇陛下のために喜んで死のうと思った一青年だった。それがアジア侵略の戦争だと知った時には本当に怒った!騙しやがった!と。以後の70数年は騙したやつへの戦いの人生ですよ」と、実に明快である。また、インタビュー時の大学ノートに書き込まれた70年前のメモをみて、わたしたちは瓜生さんの記憶力の鮮明さに驚かされた(2019年3月インタビュー時)。

軍国青年だった瓜生青年は戦後、過激な、反戦演劇青年に変貌してゆく。1946年、作家:火野葦平らと若松で「かもめ座」を創立、演劇を志す。その後、新劇の草分け的存在の演出家:土方与志に師事。土方の演出助手として『夏の夜の夢』を担当。このころ、火野、土方、瓜生の3人が土曜の夜から月曜の朝まで呑んだエピソードも凄まじい。ビールケース3箱、日本酒10本。そして、何を語り合ったか?これも、「D」を読んで下さい。音楽家:いずみたくとの「東京喜劇座」の活動や、自ら立ち上げた「青年劇場」での劇作、演出作品を観て分かるように、喜劇、ミュージカル、井上ひさし作品、韓国演劇と多彩な「大衆向け」=社会に向けた演劇を指向し、製作した。何よりも、「演劇で飯が食える劇団」を創るしかない!が、口ぐせだった。

1999年、瓜生さん、流山児、坂手洋二ら協会メンバーが主軸となり「日の丸・君が代法案反対闘争」を展開。1500人に及ぶ演劇人の賛同署名を得て国会議員会館で記者会見、署名提出。2001年、瓜生さんは第五代理事長となる、わたしは副理事長、和田さんは事務局長で瓜生さんと共に新しい事業展開を行っていった。全国各地での演劇大学、若手演出家コンクール、国際演劇交流セミナー、日本の近代戯曲研修セミナー(現:日本の戯曲研修セミナー)の4つの事業展開を行ってゆく。と、同時に協会の経済的な基盤整備の為、瓜生さんは人事委員会を創り上げた。

そんな瓜生さんは2005年『戦場のピクニック・コンダクタ』坂手洋二:作@本多劇場で80歳の役者デビューを果たす。兵隊の姿はこうだ!と、匍匐前進をして見せてくれ、私たちを驚かせた。2006年~2011年、平均年齢80歳の超高齢者劇団:パラダイス一座を結成した際にも、出演を快諾。『オールドバンチ』シリーズでは戌井市郎、中村哮夫、ふじたあさや、肝付兼太といった演出者の長老たちと組み「戦争の真実」を伝えた。瓜生さん演じる老銀行ギャング:七郎次の「あったことはあったんだ。なかった事には出来ないんだ!だれが何といおうとあの戦争はあったんだ!」という、自らの戦争=被爆体験からでたナマの叫びは、圧倒的な迫力で戦争を知らない観客の心を揺さぶった。瓜生さんは戦後70数年、ひたすら「反戦」を叫び続けた偉大な父だった。

『オールドバンチ』より【2009年パラダイス一座公演】撮影:飯田研記

コロナ禍のイマ、瓜生さんの遺した言葉は一つの指針です。「人間は間違うもの、間違ったらやり直せばいいのです」やり直しながら、少しでも協会は前へ進みます。見守ってください。
最後に、最愛の奥さんの悪口をいう時の、瓜生さんの照れ笑いが、僕は大好きでした。
きっと、今頃、お二人で美味い酒を飲んでることだろう。(7月20日)

※なお、この原稿は西日本新聞掲載原稿に大幅に加筆構成したものです。

「D」22号 瓜生正美 特別インタビュー

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