コンクール

若手演出家コンクール

若手演出家コンクール2023・公開審査会【審査コメント・レポート】

最終審査会へエントリーされたのは以下4名

大信ペリカン
鈴木あいれ
中山美里
八代将弥 a.k.a.SABO

※各画像をクリックすると審査コメントへジャンプします。

2024年3月3日(日)公開審査会を行った。担当した審査員は下記9名。

鵜山仁(文学座)
加藤ちか(舞台美術家)
鐘下辰男(THE・ガジラ)
シライケイタ(日本演出者協会理事長・劇団温泉ドラゴン)
スズキ拓朗(CHAiroiPLIN)
弦巻啓太(弦巻楽団)
日澤雄介(劇団チョコレートケーキ)
山口宏子(朝日新聞記者)
流山児祥(流山児★事務所)

司会進行は実行委員長の大西一郎、採点進行は実行委員の小林七緒、西沢栄治が行った。 まず、各作品について審査員が討論形式で審査コメントを述べていった。各候補者と審査員のやりとりも交えながら、全作品について熱のこもった議論が行われた。

【大信ペリカン】
(福島)

シア・トリエ
『驟雨』

脚本:岸田國士
出演:佐藤隆太 鳥居裕美(捨組)

相良咲 小野瑞穂

兵庫県生まれ。劇作家、演出家。 福島県福島市を活動拠点とする劇団 「シア・トリエ」代表。
地に足の付いた活動をモットーに、福島市で狭小アートスペース「ATELIER ブリコラージュ」を仲間と共同運営しながら作品発表を行っている。

日澤雄介 僕は、とても面白く拝見いたしました。これが書かれた当時と今とでは、男性、女性、夫婦というものの在り方がかなり違う。そういう所がすごく難しい作品だなと思っておりました。大信ペリカンさんも、そこで御苦労なさったのではないかなと思いました。その中で、戯曲への解釈と、想像力を駆使して色々とテキストをアレンジした足跡(そくせき)というか手触りみたなものに僕はとても好感が持てました。
オープニングの女性の大笑いがどうしてあんなに面白いのかっていうと、あそこまで弾けて笑っていただけるとお客さんもとても砕けることができますし、ペリカンさんの前説も、ペットボトルがとてもユニークで良かったと思います。とても面白い導入だなと思いました。男性が出てきたカラオケの所の空気の変化がとても好きでした。ただ、その空気の変化や夫婦間の関係性をどこまで本編の中で見せていくのかなと思った時に、その次に男性が登場してきた時の演技体が、やや行き過ぎたのではないかなという印象、肌触りを受けました。そういう演出なんでしょうけれども、もう少し二人の関係性を感じたかったと思いました。カラオケは面白かったのですが、少し長かったので、この尺にするならもうひと手…。演出的な効果があっても良かったのかなと思います。ラストの映像の捉え方は、それぞれだと思うのですが、私はあれで良かったと思いました。

スズキ拓朗 最初に質問したいんですけど双子なんですか?あ、双子ではない…。似てるだけ…。本当に似てますよね。僕の勘違いなんですけど、やっぱり二人が似ているっていう事が、女の人の本当の心の中を、煎餅を食ってる人が描いているのかな?って思ってました。本当は、この人どうでも良い事だと思ってないかな。っていう風にも想像が出来て、煎餅をそんなに食べて大丈夫ですか?とか思いながらも、女性を二分割しているようにも見えて面白いなって。そういう女中の使い方が面白かった。
岸田國士さんの作品って、内面が凄く動くような内容の本番は良く見るんですけど、面白いっていう感じのしない演出が多いじゃないですか。なんですけど、最初から歌を歌ったりして、お客さんの心を掴むっていうのは、現代のYouTuberや色んな楽しみ方への寄り添いというか、リンクしながら楽しむ事が出来ていて、時代を超えて岸田國士さんの作品を提示している。面白いなって思ったんですが、面白すぎて…。僕はこの戯曲を読んだ事があるから分かるんですけど、引っかかりたい所が、笑っていたから聞こえなかったとか、面白すぎるっていう所で、人間の内面的なもっと暗い…絶望やどうしようもない部分も、物凄くリズムがいいので、取り逃したシーンがあったと思いました。でもこんな岸田さんの楽しみ方もあるのかなという風に思いました。

シライケイタ スズキ拓朗さんと全く同じ事を思いました。煎餅を食べている家政婦は、喋ってる方の内面。物理的に食べ続けるっていう時間が上手(かみて)で流れてるのは、演劇的な仕掛けとしてとても面白いと思いました。マイクを持って歌ったりとか、最後の映像も含めてですが、あの手この手でこれが書かれた大正時代と現代の時間を、なんとか繋げられないかっていう風に僕は見ました。で、それが非常にうまくいっていたんだと思います。それと、美術・小道具がシンプルなんだけど、この舞台を劇空間にするという意味で凄く効果的だったと思います。床にクッションフロアーを敷いたりとかが何気ないんです。実は、前列のお客さんの頭であまり見えないんだけど、それでも隙間で見えてくるのが劇場の板目と、クッションフラワーの板目では全然違う。そういう所も空気を作りに成功していたなと思います。ただ、演技に関して…。わざと誇張をして演技をされていたんですけど、岸田國士さんの文体との親和性はどうなんだろう?という事には疑問がありました。喋る人は、必ず立ち上がって大きな身振りで喋る。その事で新たな発見もある事は確かなのだけど、それが岸田國士さんの書いている微妙な日常を生きる人々の微妙な営みっていう部分を飛ばしっちゃっている。そこが、見えにくくなっているんじゃないかという事を思いました。

山口宏子 私も劇場に入って最初に、床がきちんと敷いてあることに目がいきました。そこにアンティークっぽい家具がある。この作品が、良いお家に住んでいる人達の話であることと時代を視覚的に示していて、演出の狙いが良く分かりました。全体的にとても面白く出来ていたと思います。皆さんも指摘されていますが、上手の方で家政婦さんがずっとお煎餅を食べているのがとても効果的でした。彼女はこぼれたお煎餅のかけらを拾うような生活感のある仕草がとても自然で、しかもいいタイミングで、バリバリとお煎餅を嚙む音を立てる。彼女はこの家庭のごたごた、主人夫婦の攻防の冷静な観察者である。その構図がとてもよく出ていたと思います。戯曲を改めて読み直してみると、登場しない妹の夫は、いまで言う「モラハラ夫」みたいな人ですよね。この舞台は最後で現代に繋げようという意図でしたが、そのままやっても凄く現代的な話だと感じます。演技が全体的にハイテンションで、とても元気が良い。途中でギアチェンジがもう少しあっても良かったんじゃないかなと思います。妹が夫の愚痴を言うのを聞くうちに、姉の夫がだんだん「俺のことを言われて」という風に受け止め始める所など、話の主導権が動いていくのを、ギアをローからトップに上げてゆくように工夫すると、伝えたかった事が、より立体的に見えたのではないかとに思いました。

鐘下辰男 非常に楽しく拝見させていただきました。楽しく見れたんですよ。楽しく見れたという事を前提に言いますね。これ、今回の作品ですが、岸田國士のテキストじゃなくても良かったんじゃないかって。つまりね、劇団としての大信ペリカンさんが持っている特色、そしてその特色から導き出される劇団としての面白さと、岸田のテキストが、ちょっと合わないんじゃないかなという気がしました。つまり大信ペリカンさんのいい部分をもっと有効的に導き出すことができるテキストがあるんじゃないだろうかと。例えば岸田國士ですけど、デビュー時の岸田の戯曲って、当時の劇壇ではもの凄く新しいスタイルだったわけです。そのため非常にセンセーショナルなデビューだったよう。具体的に言えば、それまでの日本の劇壇が行って来た従来の「劇的なるもの」じゃないものを提示してきた。今の僕らからみると、岸田のテキストはオーソドックスな対話劇とように思えるけど、当時はそれが新しかった。つまり、岸田は何を目論んで、このようなテキストを多数発表したのか? 岸田がこうした形式のテキストを書くことで求めていた「劇的なるもの」とはなんだったのか? その岸田の意図と、大信ペリカンさんがこのテキストを使用してやろうとしてる「劇的なるもの」とが、ちょっと喧嘩しちゃってんじゃないかな?誤解なきように言っておくと、作家の意図を忠実にやらなければいけないっていう事じゃないんですよ。岸田の意図と、劇団の意図を推敲する必要があるんじゃないか。そういう観点から、大信ペリカンさんが劇団として持ってる良いものをもっと発揮できる他のテキストがあったんじゃないかなっていう気がいたしました。

鵜山仁 岸田國士なんていう面倒臭い作家を取り上げて、こういう風に演出家コンクールで演出するというケースを経験したのは、今回が初めてなんです。そういう意味では、凄く評価するんですけど、岸田國士論みたいな事をちょっと言わせてもらうと、この作家は、フィクションを「演ずる」という力でもって実生活をぶっ壊そうとしている。そこに亀裂を走らそうとしてるタイプの作家だと思っていて、一律の文体を持ってるように見えるんですけど、演出的な文体は一筋じゃいかないんだと思うんですよね。で、多分その事を感じていらして。要するに、過剰な喋りが物凄くあったり、一人じゃ絶対こんな風に喋らないよという所が沢山ある。どの作品にも、オペラのアリアみたいな所があって、これをどうやるかっていうので趣味が分かれる、その辺りが、岸田作品を演出する場合の微妙な所だと思うんですよ。そういうある種の苛立ちっていうか、この饒舌にどうやって立ち向かうかみたいな事を感じて作ってらっしゃったような気はする。問題は演出上の文体の違いみたいなのを浮き上がらせるために、セリフを喋ってない、聞いている二人のリアクションの違いが、物凄く物を言うような作りを求めてるような作品だと、これはまあ僕が勝手に思ってる節があって。そこは、圧倒的に足りなかったと思う。
だから本来立ち上がってくるはずの、女性が主義主張するっていうのがア・ラ・モードだった時代の作品だし、女性観の違いみたいな事が色々な感覚で包んでありますけど、そこが意外とはっきりと出てる芝居だと思うんです。その辺を浮き上がらせるためにも、リアクションがもっと立って欲しかったなと。問題意識には共感しつつ、やり方には共感が出来なかったというような所です

流山児祥 僕は、もっとプロレスになればいいなって。最終的に「地球が壊れる」って言ったけど、この本はやっぱりシュールレアリスムだと思ってるんです、1920年代っていうシュールレアリスムが勃興する中で、岸田はパリへ行って現実に「それ」を見てるわけだ。岸田國士が書いてるのは、フランス戯曲=世界戯曲だと読んでいる。だから面白いし、イマでも耐えられる。青空文庫で読めるし著作権フリーで上演できる。だからというわけでないけど、ボロクソになるまでみんな使えばいいんですよ。たかが「言葉」なんだから。静かに言葉だけ聞かせてもいいんじゃない?でも、想像力が途中で消えちゃうんですね。テンポだけでいっちゃってるからヤバい。岸田は、凄い素敵な言葉を持ってるし、それでいて古びないっていうのが恐ろしい事じゃない?100年経っても人類なんか何にも変わってなかったんだってことを立証できるんです。これは、演出家コンクールだから、演出家個人がどう《世界》を見てるかじゃなくて、役者スタッフという集団でどう《世界》を見ているか?を作るべきだと思う。最後の映像は、100年の歴史が全部あそこであるわけで。福島の大震災とか…関東大震災から来てるわけです。震災から震災…。その間に戦争がいっぱいあって。その映像がだーっと流れるじゃないですか。あの裏には、戦争と震災の歴史。地球が壊れていく。地球という生命の話が明らかにあった。だからもの凄く僕は面白かった。

加藤ちか 批評前者は、「100年間こんなに変わらない演劇」とありましたが、そうでは無いと感じた。
作品にある男尊女卑や身分差が、この演出では現代のように対等にされていた。
演出としてペットボトルを使用することで、意識を現代に向け、生き生きとした女性の姿を作っていた。
あえてセットは、平面的な構成にすることで、隣の部屋での出来事に耳を澄ませながら、お煎餅を食べている女中のコミカルな面白さ等を作れていた。
ただその構図は、人の心情が単純に感じられた。
夫婦の関係が対等に見え、現代の男女平等と夫婦仲が良い事が演出に感じられた所までで、この作品に描かれている夫婦のほんのちょっとした感情のズレや、夫婦は共同体だったと言うところが見えてくるまでを引き出すことはできていなく感じた。 役者さんのパワーで現代性をもって、この岸田作品を創り上げた手腕は、手に取るように分かった。
ただ、もっと考えられたんじゃ無いか、丁寧に作れるところがあったんじゃ無いか、と言う課題が見えた。

弦巻啓太 僕は双子だとは思わなかったんですけれど、 凄くそっくり。そっくりな人を見ているだけで確かに面白いし。カラオケで始まるっていうのも、その時は正直気づかなかったんですけど、今皆さんのお話を聞いていて、あそこ現代性からスタートさせたかったのかなという風にも思って。それもちゃんと岸田國士の昔の戯曲だけど、今に通じるものを抽出しようとしてるんだなっていう試みだったのかもなと思いました。美術がすごくキマっていて、数は少ないんですけれど、ちゃんと厳選したものを持ってきていて、世界観として凄くしっかりしているなと思いました。楽しかったんですけれど、すごく盛り盛りで…。それは、オーバーリアクションだったりで。岸田國士の戯曲をそのままやってもなかなか伝わりにくい面白さ、おかしみだったりを表現したいのかなと思って、そうやって見ていたんですけれど。正直、後半は岸田國士の台本って、そんなにつまらないかな?という気持ちになってきて。これ、こんなにしなくても面白い所がもっとあるはずなのにと思って。例えば、奥さんの立場がどの辺で線を引くんだろうと思って見てたんですよね。 パワープレーで面白い事をやる人みたいに見えてる中に、妻としての、その時代を生きてる女としての人生観とかが滲み出てくるっていう…。妹に説教をしていた時に旦那が入ってきたら旦那に反論してっていうスイッチングというか、その変化の中にそういうのが現れてきて、それがコミカルにも見えるはずなんですけれど、そういうのは正直見えなくて。奥さんが、その時々の気まぐれで変わってるようにどうしても見えちゃう。で、そうなってくるとどうしても最後が単調になってきちゃったなっていう気がして。最初のインパクトが大きかっただけに。ラストの映像で一気にその現代に通じるものを見せたかったんだっていう意図は分かって、その意図は凄く、おぉって思ったんですけれど、実際に舞台上にいる登場人物の関係性の中から、現代に通じるものってのがもうちょっと見えてないと、 最後にアリバイ証明だけしたみたいな感じに見えてしまって。もうちょっと複合で畳みかけて欲しかったなっていう気がしました。

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【鈴木あいれ】
(東京)

劇団コメディアス
『キャッチミー開封ユーキャン RTA』

脚本:鈴木あいれ
出演:池田輝樹 岩崎航 小山允久 武長慧介 村上京央子

1992年生まれ。 劇団「コメディアス」主宰。 物理現象を作品の主題とし、人間がモノと 戦うさまを描く。 その作品形態はゲーム実況的とも評される。 2019年からはVR演劇にも取り組んでおり、 VRChatでの短編上演やWS活動なども実施 している。

弦巻啓太 凄く面白かったです。箱が面白かったし、お客さんがあんなに喋っちゃう芝居を久しぶりに見たっていう。僕の前に座っていたおばさんとか「あと少し!」って。(一同笑う)成功しないバージョンを見れて良かった気がしますね。出れないっていうのが面白かった気もします。舞台上で箱から出てる手しか見えないっていう状態でずっと続いていくんですけれど、あの磁石の動きとかに感情移入しちゃったりほっとしちゃったりとか。良かったねって思うんですけれど、2つ気になった事があって。1つは、スタートの地点で箱の中に入っている3人の人物が、どのぐらい事態を理解して、どのぐらいのモチベーションで参加してるのかが良く分からなくて。最初からみんな協力して何とかしようみたいになっていて。そういうルールだったかな?とか、競い合うんじゃなかったっけ?競い合わなくてもいいのか?とか。そういう混乱みたいなのがあって。何回も自分の中で前提を参照しなきゃいけない感じになるというのが1つ。それと、舞台上でクリアしなきゃいけないゲームの制約が、どうしても回答をわかって作っているゲームだなっていう事が見えちゃっている。客席にある箱の人が顔を出せる状態になっていて、見て指示を出す事が前提になっている。それはヒントが最初から見えすぎじゃないかと思うんです。答えられるように作られてるハードルに見えて、この人達は何とかしてくんだろうみたいな風に思えてしまう。絶対に出来ないって事はないだろうなっていう。失敗はあるかもしれないけれど、答えが見つからない事はないという…。鍵盤の数がそもそも足りないとか、もう1個ハードルが上がる気がする。鍵盤が、ピアニカじゃなくて大正琴だったらどうかな?とか。そういうのがちょっと気になりました。

加藤ちか 一次審査の映像から見させていただいて、映像ではここまでの面白さを全く感じられなかった。
BOXからの脱出劇の全てが計算されていて、脱出をする事が分かっていながら、その成功を見る楽しみが、映像の中では受け取れなかった。
だがこの本番では、ブラッシュアップされていて、生で見たら予定調和ではなく、全ての事にハラハラドキドキし、お客さんが巻き込まれていくのを感じられた。
本当にピッタリ60分で、それがうまくいった時だけ脱出できるのだろうけれど、その確率の方が断然低く、臨場感があってめちゃくちゃ面白かった。
私は、全く脱出できなかった1回目の公演の観劇でしたが、演劇の一期一会の舞台で、生の演劇ならではの、本当に初々しい面白さを久々に体験できた。
次に起こる不可抗力な事もワクワク感に繋がり、全て舞台の面白さになったと感じた。

流山児祥 脱出ゲーム、ウーンだった…。ゲームやった事がないし、興味全くないし。でも、面白かったですよ。僕、想像したのは、彼らが20年後もこれやってて、50歳とか60歳ぐらいになっても、これをやっていたら凄いだろうなと思った。実は、これって演劇の原点なんじゃないかな。 で、不条理じゃないですか。「箱男」ですよね。ところが、「答え」があまりにも分かりすぎる。それでは「迷宮」に入らないわけです。僕は、迷宮のドラマが欲しいから。見ていてロマンチックでもないし、分かりきったことだし。結局、僕が観た回では最後に、弟にモノガタリっぽい事をなんか叫んでたけど、全く聞こえないからわかんなかった。ただやってる事は箱から手が出ていて、外れて、喜んでる人の三角形っていうか?だった。鈴木さんが、どういう風にこの集団を持っていきたいのかが、僕ん中では今の所想像が出来ない。でも、実は鈴木さんは「何もない世界」を描きたいんじゃないかと思想していた。何にもない世界。そっちの方が怖いよね。全員が拍手をしてるし、これは素敵な事で、僕も拍手しちゃってる。あの箱がチープだよね。あれがイイ。結局、手がどこまで動くかっていう。まさに物理っていうかさ…。稼働域の問題じゃないから、人間の体なんですよ。

鵜山仁 僕は、自分が台本を書けないもんだから、戯曲審査みたいなことをしなくて良い作品が出てくるとスッキリするんですけど。(一同笑う)関係性とかストーリーの運びとか、最終的には脱出するって目標があるわけだけど、それに至るプロセスの中で、どう人間関係がごちゃごちゃするかっていう、人間関係と演出の骨格みたいな事を見せてもらった気がする。そのパッケージ性は面白いんだけど、この作品を1番にした方がいいのか、佳作にした方がいいのか、そこがよくわかんないっていう感じです。それと弦巻さんが面白い事を言ってたんだけど、僕はその箱の中に入ってる4人のモチベーションていうのは、そもそも地球上に生まれた時にどういうモチベーションを感じますか、みたいな感覚で捉えられる。それで、2つ目の箱があって、このあたりは明らかに予定調和なんですけど、そこそこ芝居って予定調和でしょうと思ったりして。で、最高に面白かったのがカーテンコールの時にみんな箱から出てくんだけど、でも出方に全然爽快感がないの。(一同笑う)本当に人生を感じました。(一同笑う)そういう意味で、とっても面白かったです。

鐘下辰男 最初は、パンフレットを読んでゲーム実況的?VR演劇? とあったので、どうも昭和世代のおじさんからするとさ、なんかちょっと斜に構えちゃう的な感じだったんだけど(悪い意味で今風的な)、蓋を開けて見たら非常に楽しめました。僕、個人的にフィルムカメラが好きなんですよ。電池を使用しないやつ、完全にメカのみの。自分はなんであれにワクワクするんだろうって改めて思った。近頃の若い人の間でもそうしたオールドカメラって結構人気があるって聞くんだけど。でね、このお芝居もワクワクするわけ。自分だけじゃなくお客さんもワクワクしているのがわかるわけ。これ、なんなんだろう?って。思ったのはこれもう「身体性」なんだなと。つまり、古き良きマシーン?物と人間が対峙するってパンフに書いてあったじゃないですか。その「物」ってのが、この芝居では非常に19世紀的というか、20世紀初頭というか、要は産業革命時代の初期の頃のマシーンで、その頃のマシーンって、マシーンはマシーンなんだけど、あくまで人間の身体の延長線上にあるマシーンっていうか、だから反対に、「人間」をすごく感じちゃう。だから、これはすごく演劇だって思った。最終的に脱出できるかどうかっていうのは僕にとってはあんまり関係なくて。マシーンと対峙している人間の身体が重要だった。だからカーテンコールで、汗みどろになった人間が箱から出てきた時、あそこは1番感動した。最後、あの人情的な逸話はいらないと思った。でも、ああいう人情話が出てくるような所も19世紀的なんだけど。(一同笑う) そういった意味で、改めて思うのは、じゃあ今我々はどんなマシーンに囲まれてるんだろうってこと。どんどん身体性が排除されちゃってる。非常に僕は大袈裟なことを言うと、こんな人間賛歌な芝居はないんじゃないかなと思いました。ありがとうございました。

山口宏子 これほど観客が前のめりになって見ている芝居は珍しい。とてもうまく見せていたと思います。箱から手だけ出てくるだけで、体は全然見えないのに、まさにそこに人間の身体(しんたい)がある。ちょっと人形劇のようにも見えました。文楽など人形の芝居を見ていると、時々人形が物凄い生々しさで迫ってくることがありますよね。見えている手に、それに近いものを感じました。閉じ込められている箱から脱出するという単純な筋で、いくつかの試練をクリアしていくだけ。それなのに、あれだけの時間を集中させて見せるのは素晴らしい。少し気になったのは、舞台の上にあったモニターです。劇場にいた観客は多分、誰もモニターを見ていなかったと思います。目の前の生身の人間に集中していましたから。モニターがあった位置は凄く見づらかったし、何の為に置いたのかが、私にはよく分かりませんでした。ただ、セリフの中で「これって配信してるぞ」と言っていましたよね。劇場の中にいる観客は、箱から出ようともがく彼らをものすごく応援しているわけですが、そういう私たちを、見えないところで別の誰かが、違う種類の娯楽として消費しているのかもと思わせるセリフです。ライブとオンラインが共存するという、とても今日的な状況をほのめかされることで、ある種の不気味さも生まれる。モニターがそういう世界のあり様を示す存在だったのなら、もっと見せ方を工夫すると、より意図がくっきりしたと思います。兎に角60分フルに楽しませてくれて、ありがとうございました。

シライケイタ 皆さんが言われた通りで。細かい理屈は抜きにして、もう本当にただただ面白かった。で、こんな体験はあまりなくて。客席が一体となって、ただ一点を見つめ続けているっていう…。一体感をここまで感じたのは、演劇ではなかなか無いんじゃないかなって。だからそれはもう本当に凄いと思ったし、10年経ってここに辿り着いたみたいな事を仰ってましたけど、こういう事に拘ってきたっていう凄みっていうか、僕が想像も作ろうとも思ったこともない演劇が、まだ世の中にいっぱいあるんだなって思って。これ、面白いのかなと思ったけど、手だけでずっと見てられるっていう。箱の中はどうなってんだろう?って想像して。僕、細かい事は本当に何にもないです。ただただ面白かった。こんな観劇体験をさせてもらったことに感謝だし。予定調和があろうがなんだろうが、チープな人情ドラマがあろうがなんだろうが、そういう事も含めて全部面白かった。本当にありがとうございました。お疲れ様でした。

日澤雄介 凄く言いづらいんですけど、僕は全く楽しめなくて。というのも今回の作品は1次審査の時に映像を拝見していて、とても面白くて、こんな演劇があるんだって思って、これは本当に発明だと思ったんですね。何が面白いって凄くドキドキするし、目の前の起こる事に一気に熱中出来ている自分ってのは映像ながらライブ感をモノ凄く楽しんでいるなと思いました。今回、それを生で拝見した時に、お客さん達が大盛り上がりでもうめちゃくちゃ楽しんでいて。その中で自分が楽しめてない。でもやっている事は1次審査の映像とは変わらないし、何かおかしな事が起こってるわけでもないし。見せ方の面でもすごく工夫されているし、流れとしてもすごく良い流れなんですけれども、私は楽しめない。これはなんなんだろう?っていうのをずっと考えていて。1回見ているから仕掛けが分かるんですよね。だからこれはこういうものだってわかるんです。わかるから、次にどういうことが起こるかってのも分かってしまうんです。これがもし初見だったらめちゃくちゃ面白いだろうなとは思ったんです。だから、僕の講評って最終審査だけのものとしてはそぐわないのかもしれないんですけれども、楽しめない理由ってなんなんだろうって思った時に、プレイヤーの中にいる俳優さんたちが、何をもってこの仕掛けを解いてるんだろうか。仕掛けを解く事にとても喜びを感じているように感じたんです。で、それは合ってると思うんです。それは開ければ出れるから、お金もらえるから。ただ、そこしかない。だから、その人たちの先にある何か、例えばお金が入ったら借金を返せるとか、お金が入ったらなんか地下から出られるとか。っていう所の想像が全くいかないから。誤解をして欲しくないのですが、やってる事に予定調和って全くなかったんです。 その瞬間に起こるアクシデントとかにも対応してたし、そこは間違いなくライブだったんだけれども。本当にスポーツの様に、この作品は「この時間で解くタイムアタックを楽しむもの」っていう風に見せられた方が僕は何回も楽しめるというか。最後に俳優さんが出てきた時の汗がめちゃくちゃかっこよかったのは間違いない。あと、中に入ってる人達の衣装が綺麗すぎるのも僕は気になって。なんであんなに新品なんだと。そういう世界観なのか?っていう。新品着させてもらえるんだっていう所が凄く細かいけど思っちゃった。

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【中山美里】
(東京)

演劇企画もじゃもじゃ
『不眠症と河』

脚本:中山美里
出演:いずみはる 岡田隆成 数澪里 夏七美 鳥飼健太郎 星和也

演出家/劇作/クリエイター 桜美林大学演劇専修に入学し、強烈な演劇 人達との様々な出会いに導かれ、2016年 「もじゃもじゃ」という団体をつくる。
以後は人と人との間に生じるあらゆる 「もじゃもじゃ」を探求しては興奮したり、 苦しんだりしている。

鵜山仁 パフォーマンスとしては、やっぱりああいう夢みたいなお話。ライトが色々あったり仕掛けは工夫されてるなと思ったんだけど、夢の話だから夢みたいにずっと喋ってるのがちょっと辛いなって感じかな。もっといろんな声が聞きたかったなという印象ですかね。だからどうすればよかったんだろう。床のこれがワープロっていうか、活字じゃなくて手書きの方が良かったって流山児さんが言ってたけど、そういうビジュアルのイメージだけじゃなくて、もっとノイズがいっぱいある空間の話なんじゃないかと思って。それがなんとなくね、綺麗すぎるように見えたので。ちょっともったいなかったなという印象です。

流山児祥 ファンタジーに寄り添いすぎるように見えちゃった。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」を使うわけだから、岸田國士もそうなんだけど、「100年」前の話じゃないですか。寺山さんの言葉じゃないけど、100年経ったら書いているその意味がわかる。宮沢賢治の言葉も100年という月日の中で、僕達の体にどこまで染み込んでいるんだろうか。それを中山さんの中ではどういう風に見えているんだろうっていうのを想像しながら 観ていたから。その中に、「ノイズ」がもう少しあってもいいんじゃいかな。俳優の演技がみんな同じに見えちゃうんですよ。出て来る役者達にもっと凸凹があっても良いんじゃないかってイライラした。ジョバンニの父というもう1人出てこない人が出てくるんだけど、そこの話ももう少し見たかったな…っていう僕の個人的な感想。色々な駅で鳥追いとか車掌さんとか出てくるじゃないですか。そのお話が「全く変わらない」から、なんでこれやってんだ?シンプルに思った。患者っていうか不眠症の彼が、彼の中で、ボンボンいろんな風に飛んでいけばもっと面白いのになと思ったけど。前にやった「ボーイズラブ」の芝居の方が僕にとっては凄く面白かった。だから今回、お行儀が良すぎるんですよ。「ボーイズラブ」を見た時は、お行儀の悪い腕力のある作家で演出家なんだなとか。だから、宮沢賢治の言葉に対する対決力。中山さんが返り血を浴びる、あるいは切り込む。そこで、中山美里っていう演出家がこんなもんなんでもねぇやって、100年なんてなんぼのもんじゃい!って言ってんのを見たかった。

加藤ちか 作品は、センスのある演出だと感じた。
強いて言えば、役者をもっと魅力的に見せる演出があれば良いと感じた。
私の観た二次審査の舞台でも、同じく精神性の方が先行していて、肉体的な事が遅れを取っているという歪みのある表現だった。
それも個性である理解はできたが、作品の台本に書かれた事を、より体現出来る肉体を武器に持ったら、もっと面白くなると思った。
今作品の、冒頭からある、書かれた原稿用紙での河の表現は、この後どうやってその紙を使い切るのだろうと、私の想像を掻き立てたが、実際にはそこに立ちつくすばかりの肉体だった。
紙(河)は渦だったり、心象風景でどんどん形を変えて行くのかと想像しながら、ここから始まって作品をどう魅せるのだろうと言う期待があったが、作家として文章で説明して終わってしまったという感想だった。
演出家として、それを魅せるものに面白がって行く事が課題になると思う。

弦巻啓太 始まった時の絵が印象的で、すごくスッキリしてるっていうか。役者が立ってただ喋り始めるだけなんですけれど、そこで引き込まれた所があったんですけれど…。基本、淡々と喋るっていうか、抑制されて、あんまりこう何かを激しく訴えたり…ザネリ役の方だけなんか不思議な喋り方をするとかはあるんですけれど、割と淡々と進めていく事には、すごく好感を持ったんですけれど…。銀河鉄道の夜との組み合わせが悪いような気がして。中山さんの銀河鉄道の夜との向き合い方が問題なのかもしれないし、角度を変えれば全然別なのかも知れないんですけれど、銀河鉄道の夜に対してベースって仰ってたんですけれど、丁寧に壊さないようにやってる感じというか、踏み込まない感じがあって。後、脚本の部分で気になったんですけど。それが作品として引っかかってしまったのが、登場人物が話してる事が淡々とシュールな感じでいくのかなと思って見てたんですけれど、段々と銀河鉄道の夜の世界に重なってくるってなった時に、その重なってくる事を当たり前に受け入れてて。あれ?いつそうなった?って気になってしまったんです。結構ブレてるようにも見えたんですね。ジョバンニ的な立場の人が変わってるようにも見えたりしたし、そういう色々な事で僕は混乱したんです。ジョブズが出てきて、あの人がジョブズだっていう事に全然気づかなかったので、よく考えたら衣装もそうだって段々気づいていく。それとかすごく面白くて。そういう風に壊してく要素がもっといっぱいあると、演技でやってる必然とかも繋がってったんじゃないかなっていう気がしてました。ちょっと僕は乗り切れなかったんですけれど。ありがとうございました。

日澤雄介 俳優の皆さんが結構個性、というか自由にやってらっしゃったように思いました。そして、銀河鉄道の夜っていうのをベースと仰っていて。で、そのままやっていて。それはそれでいいのかなとは思いました。ただ、その中で中山さんの描きたかった事がどういう事なのかっていう所…。僕からしたら、例えば最後に若い頃の自分に、これから先銀河鉄道の電車降りてしっかり生きてきなさいみたいな所とか。設定が2045年か…。僕は中山さんが現代に対して結構悲観的な見方をしていて、それをその45年に何かしらの希望を持ちたいのかなと思って見てしまいました。その魂が解明されて、魂を受け取ったアンドロイドの彼女が最後は回収されるのではなく、そのまま不眠症の男性と45年にとどまって生きていく、所に何かしらの希望みたいなものを感じて見ていたんですけれど、例えばそういうところとか。間違ってたらごめんなさい。中山さんが凄く仰りたい銀河鉄道の夜というものを、ベースにして描きたかった事っていうものが、少し曖昧になってしまった印象です。銀河鉄道の夜ってとても有名な作品ですし、強い作品ですので、どうしても元々の物語に目線がいってしまったっていうのは、勿体ないのかなと思いながら見ておりました。ただ僕は、例えばジョブズのカットインのさせ方とか、笑いの「apple(アポゥ)」の入れ方とか、そういうものの入れ方にとてもしなやかなものは感じて、独特の感性を感じたので、そこは絶対に失って頂きたくないなと思って見てました。
後、床でのお芝居が僕の席からはやはり少し見えづらかったなっていうのが。例えばあの賽の河原のように多分石を積んでいたんであろうというのが、倒された時の音でしか分からなかった事とか、見せ方という面ではもうひと工夫があっても良かったのかなっていう風にも思いました。

シライケイタ 紙が川になってたじゃないですか。あの紙って僕の席からは文字が書いてあるように見えたんですが。
-あれは、青空文庫を印刷したやつです-(中山)
-さっき言ったのは、あれが手書きの文章だったら良いんじゃないかって-(流山児)
確かに手書きだったらな…。それは比べ物にならないくらい凄いかもしれない知の蓄積とか、人の100年の営みが流れているっていう事かな。何か工夫ができたんじゃないかと思うんです。もの凄く素敵なアイデアだと思ったので。内容に関しては割とシンプルに捉えていて、要するに人間の幸せってなんだ?幸福ってなんなんだろう?っていう事を普遍的なテーマとして捉えたんです。で、宮沢賢治が書いていた時代の幸せっていうものと、スティーブジョブズが出てきた現代の幸せってのは、価値が反転してるっていう事はシンプルに受け取れて。つまり、個人の幸せが世界の為にあるっていうのが、100年前の価値観だとするならば、今は個人の幸せがなきゃ世界の幸せがないっていう価値観。かつては世界の幸せの為に個人があるっていう全体主義的な部分…。宮沢賢治も、この本もそうだって思うんです。世界の為に犠牲になっていく、個人が犠牲になっていく話でしょ。でも多分スティーブジョブズのAppleがあそこに掲げられているって事は、多分希望の星として掲げてるんだっていう風にシンプルに思った。一方で、先輩達が言った事とちょっと似ちゃうんだけども、俳優の身体性だとか存在の具体性だとか、お話がちょっと夢の世界っていうのもあるので、そこに肉体の実存感みたいなものっていうのはもう少し…。匂いみたいなものが、もう少し感じられると僕はもっと良くなったんじゃないかなと思いました。

山口宏子 劇場に入った時に、舞台が見えて、なんて綺麗なんだろうと思いました。たくさんの紙が床に置かれていて、そこに何か文字らしきものが書いてある。何が書いてあるかまでは見えないのだけれども、そこには何かおそらく言葉=人間の思考であったり知性であったり、或いは感情だったり…、そういうものが流れていることがわかる。そして、そこここに小石のようなものが点在している。とても素敵だと思い、どんな話が始まるんだろうと期待しました。でも、上演が始まると、私は4列目に座っていたのですが、舞台で何が起きていることのかなりの部分が見えなかったんです。ちょっと姿勢が低くなると俳優さんの姿が見えなくなる。最前列の人は見えたのかもしれませんが、2列目以降の観客に伝わらないというのは困る。何か工夫があった方がよかったと思います。「銀河鉄道の夜」という、生と死が淡い形で共存していて、悲しく澄んだ透明な世界をベースに、演劇にしようとしていた事は伝わってきて、とても美しい作品だとは感じました。人間とは、幸福とは、という問いかけがあり、そこに、アンドロイドも登場する。しかも、そのアンドロイドは旧式で廃棄されてしまう。それはアンドロイドにとっての「死」。じゃあ、未来の時代において「死」って何なのだろう――といった、考えさせるテーマはいろいろあり、複雑に絡み合ったそれらを美しく届けようとしているのは、とても良かった。そこをもっと見たかったという気持ちです。ただ、それをどう見せたかには、残念ながら課題がありました。劇場の条件を考慮して、作品の届け方を工夫してほしかったです。

鐘下辰男 要するに、目に見える「演出効果」を見せるじゃないんだろうなって印象。
だから多分、演出家の意図は、テキストを重視せよという指示なのかな?と思っちゃうわけだ。そういう演出に思えたから。だから当然テキストに意識が行くわけだよね。具体的に言うとセリフを聞く。すると最初にネットっていう言葉が出てくるから、これ現代かと思う。という事は宮沢賢治の原作を現代に置き換えて、現代の本当の幸せの意味を問い直す芝居か、という風な事を考えながら見ちゃうわけね。そういう芝居の見方が良いか悪いかは別にして。そしたらさ、活字拾いをしてるんだっていう原作通りのが出てきて、あれ?現代じゃなかったっけって少し混乱してね。でも、ずっと見てるとどうも時代設定は2045年なんだとわかってくる。2045年っていうのは例の「シンギュラリティ」が来るとか来ないとかの時代でしょ? で、そこにジョブズが出てくる。つまりAIに抜かれた2045年の人類はジョブズを求めてると。でも、なんでジョブズ求めてんの?みたいなこと思ったりして、一種の知的遊戯って言うとあれだけどさ、そんなのをちょっと見せられちゃったかなって感じ。知的遊戯で見せる演劇がダメだっていう事じゃなくてね。そっちの方に意識が行きすぎちゃった。でもそうして知的遊戯をさせられる割には、物語的にはそうした知的探求を満たしてくれるような回収がされていない気がして、え? 結局「本当の幸せ」ってなに? 何が解決?って感じになっちゃったかな。そういう意味で、悪い意味で観客が置いてけぼりになっちゃったかな。なんていう事を思っちゃった。でも銀河鉄道の夜を読み返してね、本当の意味を、本当の幸いを問いかけるというその意欲は、僕は嫌いじゃない。

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八代将弥a.k.a.SABO
(愛知)

16号室/room16
『演出家コンクール最優秀賞受賞予定作品』

脚本:八代将弥 a.k.a.SABO
出演:佐治なげる ( オイスターズ )

元山未奈美 ( inni/演劇組織KIMYO )
八代将弥 (16号室/room16)

16号室/room16主宰
「視点」「狭間」「遊び」をテーマに 演劇を創作する。
若手演出家コンクール2018「優秀賞」 受賞。
名古屋市民芸術祭2022「特別賞」受賞。
NAGOYA NEWクリエイター映像AWARD 「グランプリ」受賞(脚本)。

鐘下辰男 最初に1つ確認として、最後の吐露があるじゃない?あれって要するにフィクションっていうよりも、本当の八代くんの思いっていう風に解釈していいんだよね。
-正確に言うと、基本的にはそうだと思っているんですけど、自分でも違うのかもしれないって思いがあります-(八代)
自分の事を題材にして自分を語るっていうさ。そういう方法が公共劇場のワークショップだとかさ、即興の世界ではプレイバックシアターだとか言うんだって。そういう物なのかなっていう風に見ていて。コンクールに向ける自分の立ち位置や思いがまずあって、じゃあそれをどうするかという話になって、審査員をどう説得するかっていう話になって、初期衝動がっていうのが出てきて。後半のいわゆる親とのシーンがあって、演劇人っていう世間的には社会的な弱者としての自分っていう現実が語られて。最後は自分を信じること、自分の言葉を信じるんだっていう流れだよね。ざっくり言うとさ。で、最後に「分かるか?」っていう問いかけがあって。僕は審査員っていう立場だからさ、その問いかけが、僕に問われてるなっていう風に思うわけですね。そのリアクションとしては…「分からん。」(一同笑う) と答えてしまう。これは悪い意味で言ってるんじゃなくて、観客がそれを理解する事でそれで良しみたいな話じゃないだろうって。日常生活でも「分かるよ」つったら、「あんたに分かるわけないじゃない!」みたいな事言われたりするじゃない。だから、「分かる。」みたいなのと「分かるー!!!!」みたいな。(一同笑う)理解をして分かるんだけど、心情的に一致する「分かるそれ!!」っていう所まではいけないし、いかなくてもいいんだよね。要は「本当に分かるよ」って所まで果たして人間っていけないだろうっていうね。
-もちろんその提示はあって、僕も全部整理できながらやってたわけじゃないので。共感を基本的に人に求めて演劇をやらないようにはしてるんですけど、確かに僕は共感を求める言葉を昨日とか言ってるんですよね。さっき言った本当なのか自分でもよくわかんないっていうのはそういう事なのかもしれないし。今、鐘下さんが仰った「分かる」と、「分かるー!!!!」の話も、僕も「凄く分かる」なんです。(八代)

まさにその最後の、それもどうだかわからないみたいなね。それって八代さんにとって大きな発見だったりするわけじゃない。そこが演劇的というか、八代さんがそこへ行きつく過程みたいなものが見れる経験が持てたっていうのは、面白い体験だったなという感じで見てました。「分かるー!!」とまではいくかどうか分かんないけど、少なくとも「分かる」という感じかな。
-前回っていうのはだいぶ前なんですけど、最終審査を演出家として参加させてもらった時に、鐘下さんに1点をつけられてるんですね。(一同笑う) 低い点をつけられた人ってなんやかんや言ってずっと恨み続けてて。(一同笑う) その時も、僕がいわゆる主役のような所をやって、それは完全なフィクションではある物の、要は自分の話されても的な事を言われて。客席とコミュニケーションがないような事を言われた気がするんですけど。今作もそれが結構気になってて、なんていうか、嫌でしたか?」(八代)
いやいや、今回はまさに自分じゃん。物語もフィクションの物語ではなくて、ある種の現実をベースにしたわけだよね。だからそれは全然印象は違う気がしました。
-今喋ってる感じの印象が、当時と全然違うんで、違うんだろうなと思いました。すいませんまだまだ言いたいことあるんですけど。(一同笑う)(八代)

山口宏子 演出家コンクールなので、「どう見せようとしたか」「それをどう達成したか」を見るのが適切なのだろうと思います。もちろんそこにテキストが関わってくるのですが、そのテキストの内容をどう考えるか、ということは、このコンクールでの評価基準とはまた別のものなのでしょう。そういう前提で意見を述べます。出演した佐治なげるさんと元山未奈美さんが素晴らしかった。本当に上手で素敵でした。二人からああいう演技を引き出したという点で、八代さんの演出は、とても良かったのだろうと思います。冒頭でコーラをこぼし、あわてる場面があります。最初は本当にアクシデントなのかと思わせる。それくらい二人はうまかった。で、観客に一瞬、本当のアクシデントなのかと思わせて、もう一度、同じ演技を繰り返す。今ここで起きて、一瞬客席をハラハラさせるようなことを、僕らは何度でも繰り返しやれるんですよというのを、実際にやってみせて、演劇そのものを批評する。演劇の作り手と観客の「騙す/騙される」の関係を上手に見せている。これも演出として優れていると思います。その次の八代さんとお父さんとお母さんとの会話の場面。最初は、過剰に喜劇的にやる。次に非常にシリアスな感じでやる。ここで語られている内容は、演劇界の小さなコミュニティーの中で流通している価値観と、外の世界とのずれについてで、そうとう空疎ですよね。それをまるで違う調子で演じてみせ、こうもできます、ああもできます、というように見せる。そのように演出を相対化した部分はとてもよかったと思います。ただし、終盤の独白の部分は、そうした相対化がされていないと感じました。

シライケイタ ラストの終わり方に関しては、戯曲構造で言うとメタ的な視点をもう1回入れ込んで戻すとか、そんな事はいくらでも仕掛けとしてはやれると思うんですよ。でもそれをあえてやんなかった。僕は八代君の生身の言葉に聞こえたし、100%アドリブとは思わなかったけれども、彼の切実な訴えとして聞いて。時間はまだ終わってないのに、客電つけて終わらせるっていう事の潔さに完全にノックアウトされた。この潔さは本当に素晴らしいなと思ったわけです。つまり凝ろうと思えばもっと凝れるんだけど、それまでの造りが凝ってる分、最後はこれでいいんだっていう。自分に出来る事はこれしかないんだっていう所で見事に終わった。そういうもんだよね、演劇って。終わった後に、僕は握手しましたよ。感動したよって言ってね。(一同笑う)感動したって伝えたくてね。俳優たちの演技は本当に素晴らしかったと思います、八代さんも含めて。本当に素晴らしかったと思う。何が素晴らしかったっていうのは、 純粋に演技力が上手いっていう事はもちろんなんだけど、自分たちのやってる事が全部客観的に見えていて、今自分がやってることはちょっと嘘くさいとか、よりナチュラル寄りにとかっていう事を自分達で分析しながら、それも芝居にしてやってたよ。わかってもやれない俳優だっていっぱいいるし、それを見事にあの3人の俳優達が体現してるっていうのは、本当に素晴らしいなっていう風に思いました。 コンクールでこれをやるんだっていう1番強い意思を感じたかな。あそこまで赤裸々にシライケイタ知らねぇなとか。(一同笑う)なんか清々しくて。そうだよなと。だって俺が思ってた事だもんね。10年前、20年前になんでこいつらに審査されなきゃいけないんだって。
-僕はそこまでは思ってないです(笑)-(八代)
そんな僕が10年経つと審査する側になるんだなっていう。権力者って言われてたけど。そういう事なんだ世の中っていうのはって思いながら、甘んじてそれも受け入れて。でもすごく心強かったし、何より僕が一緒にもの作ってみたいなとか、仲間に入ってみたいなって思った。俳優として。
-男に二言はないですか?(八代)
どうやって作ってるんだろうって思ったの。この作品をどうやって作ってんだろうって。それを知りたいなって思って、楽しそうだなと。あーでもない、こーでもないって言いながらきっとやってんだろうし。それが楽しそうだなと思った。

スズキ拓朗 僕はメモったことを喋ります。はい。自分の名前が作品に出てくるって本当にドキッとした。SNSの恐ろしさを改めて実感した。リアリティがあった。一見大丈夫か?このテーマで、と思うが演劇の狭さや生きにくさを実感と嘘の繰り返しを見事に描いていた。 モノローグじゃんかと思う反面、そこに立つ役者のリアリティがストーリーや状況、関係のない世界まで飛ばしてくれる、嘘から出た誠でした。こんな小さな演劇のコミュニティだけの作品を作れる、なんて意味のないことなんだろう。しかし、そこに生きてる人間がいると感じられた。演劇を批判した、それでいてとってもピュアな作品だったと思う。ダンスは良くなかった。(一同笑う)
このちっちゃい演劇の空間というか、2回目とか3回目挑戦してとか、我々と同じ気持ちであるとか、コミュニティーとしてはもう世界ってすごい小さい事というか。今回このテーマに合わせて作れる事が出来るっていうのは、もうどこでも作れるじゃんって思っちゃったんですよ。なんかすごい内輪っていう言い方もあるけど、いやでもこれでいいんじゃないかな演劇はって、僕はすごく思いました。もうスタニスラフスキーの本にして欲しいぐらい。どうやって俳優はやるべきなのか、どんな作品を作るべきなのかっていう、ものすごい僕は感動したし、ちょっと感情的にならないように文章を読みました。もうちょっとやめていいですか。はい。

日澤雄介 書類審査はとても難しい、ということだけ伝えたかった。(一同笑う)兎に角、本当に俳優さんのお三方がとても素晴らしかったってのは同じ意見です。この3人がいたからこそ成立する作品であったのだろうなと思ってます。我々の名前とか出てくるし、演劇業界ってこうだよねって、お父さんお母さんこうだよねっていう話があるんですけれども、一般のお客さんにどこまでそれが理解できるかっていう所は、我々だったらもうドンピシャわかるんだけれども、批判的に捉える可能性もある。そういう中で何が凄かったってやっぱり3人の俳優なんですね。例えば、八代さんだったら八代さんっていう人がお芝居をやっていながら、その後もう1回それをやる。その差ってのが本当に少しだったりする。それが素にも見えるし、演技にも見える。そこに不自由がないし、自然体でいられるっていう、あのバランスを3人がかなり高いレベルでやっていたっていうのが、この作品を成功に導いた最大の原因なんじゃないかなと思いました。
その中で、照明の具合であったりだとか、俳優さんの演技の具合であったりの匙加減が、演出的にはとても効いていたと思います。ホワイトボードの使い方であったり、コーラ1つ取っても、キャップ落とすにしてもそうですし、やっぱりコーラをこぼして処理をするってのは、どこかでこれはあれだなと思ってしまうんですが、それをうまい事演技で回収していくっていうのは本当に、賛否の否を消していくような作業のように僕は思って見ておりました。ラストの終わり方なんですけれども、八代さんの最後の言葉っていうのは、実に実感がこもっていて、すごく心に届いた。ただ、僕はあの後楽屋に帰って、八代さんがペロっと舌出しても全然驚かない。 逆にそういう選択肢を2つ与えてくれたっていうあのラストは、僕はとても良いと思いました。はい。素晴らしかったです。ありがとうございました。

弦巻啓太 とても面白い作品だなと思ったので、ここで最優秀になろうがなるまいが、来年ぜひ再演してもらいたいなと。全国ツアーとかやってもらいたいなって思いました。(一同笑う)大体仰った事なんですけれど、結構その盛り盛りで色々やってるんだけれど、照明のプランが多分相当細かいのかなと思って、呼吸に合わせてちゃんと変わっていて。きっかけっていうよりは、お3方の役者さんの演技が素晴らしいんですけれど。劇中劇をやってる時、素の自分に出来るだけ近いものを見せようとしてる時のリアリティーのラインみたいなものって、言葉で設定できるものじゃなくて、きっと3人のその時の掛け合いの強さだったり、熱みたいなものの受け渡し方で変わってきちゃうと思うんですけれど、それが常に同じ所を3人が見てるっていうのがビンビンに伝わってきて、これは凄いなと。ちょっと今のは楽しみすぎたよねとか言って、もうちょっとリアリティに寄ろうかって言って、すっとそっちに入っていけるとか。そういったことがすごく上手というか見事で、とても見てる間は楽しかったし、僕もここのコンクールに出た時が38歳だったんで、38歳になっても八代くんはこういう事を言ってるのかとか、なんかそういう意味でも面白かったんだけど、凄く分かるっていう気持ちもあったんですけれど、仮に僕が八代さんのことを知らなくて、出てる人が八代将弥本人だって全然わかんなくて見てても、最後の訴えとか信用できるなって思って見てたんですよね。だからそれは作品としてちゃんと対立構造があって、八代さんっていう役を否定するお2方がいて、ちゃんと1人よがりになるところにいかせないみたいなバランスがちゃんと出来てるからだと思います。でも、まあまあ評価っていう意味で、ダンスは僕もちょっと、 ちょっと辛いなと。(一同笑う)
机の向きが果たして正解なのかとかって思う所はあるんですけれど。後、シライさんは、権力者とか言われてて揶揄されるにしても全然良いんですけれどね。僕なんか音のプロって言われて。あの客席の空気を僕は多分一生忘れないです。(一同笑う)ありがとうございました。

加藤ちか 私は、2018年コンクール優秀賞の時点で、この演出家は、クリエイターとして確立している印象だったため、今回、何か一つ思う所があっての参加を感じた。
公表でシライさんは、僕も(楽しそうに見えて)作品に入りたいとおっしゃられていたが、私には、作品を楽しんでいた感想はなく、クリエイターとして絞り出して、苦しんで、全てをさらけ出して挑んだ、まさに排水の陣を感じる作品だった。
刃物を突きつけた位の言葉で、観客と対峙するこの作品は、受け止める側の私には、苦しみが笑いに変わり伝わった。作品を産む苦しさだ。
主演と演出家との演じ分けるスイッチングも面白く見えたが、何の迷いも無い2018年の時のような作品を、私は観たいと思ってしまった。
貴方の本質の、伸び伸びとして、魅力的で、楽しんだ作品を思い出しながら、作品中の自分の名前の連呼を聞いていた。

流山児祥 こんなタイトルの作品をやるっていうのは凄い。でも最近こういう芝居多いね。僕はコーラの所はもっと面白くなるんじゃないかと、それと弦巻さんが言った、机の位置が変わった方が絶対面白いと思って見てた。後、八代さんを演出する人がちゃんといた方が良いんじゃないかなと思って観ていた。この芝居の最もリアルなシーン。僕も八代君同様、好きで芝居やってる。もちろん、芝居では食えない。矢代君には叱ってくれる親がいるけど。俺、死んじゃってるから。息子から時々「いい加減にしろよ」と叱られる事はあるけど、これから孫に叱られるかものね。でも、おじいちゃんは好きな事やってるんだよ…って言えば良いだけのハナシだと俺は思うね。胸を張って堂々と芝居やるべきだと思ってる。命をかけて舞台の上に立っていようよ。一生やればいいじゃない。一生やれる仕事だもん。っていう風に見ながら思ってた。だから、もっと残酷に上からコーラバカバカかけて、コーラまみれの中で喋ればどうだろうとか、俺はそっちの方待ってたけど。1番笑ったのは「八代はナルシストだ」って言われるじゃないですか。あれ。
-もっと流山児さんをいじればよかったって今めちゃめちゃ後悔してます-(八代)
結局、3人いるから芝居出来るわけじゃん。3人っていうのは批評の眼があるって事じゃないですか。だから誰か演出家やってあげればって最初に言った。
-演出してあげればっていうのを人に預けずに、当事者性を持っていて欲しいから、僕は(八代)
演技がダメだったって言ってんじゃない。素晴らしかった。素晴らしいけど、ちょっと違う、もう1人の八代がいたら。それをずっと想像してた。
-だから僕は演出してほしいと思ってるから、今日は演じてるっていう話なんですけど。違いますか?(八代)
だから3人で終わらせるべきだってこと。最後もう一度2人が出てきて終わらせるべきなの、八代君の芝居を。ところが八代君1人で終わったから、これはナルシシズムにしか見えねぇぞって言ってるわけ。批評性がなければ「世界」は見えない。3人っていうのは演劇の原初の構造だと思う。

鵜山仁 芝居というものが、何かの役に立つのか。別に立たなくてもいいっていう議論はあるんだろうけど。もしなんかの役に立つんだとすれば、僕なんかの感覚だと現実を相対化できるっていう事だと思うんですよね。現実を相対化するっていう意味で、僕はやっぱりメタっぽい芝居が好きなんです。で、そういう構造でこのコンクール自体を相対化するわけじゃないですか。そこのテンポやリズムは本当に皆さん仰るように良くて。名古屋っぽいアクセントで、つかさんとか思い出しちゃったりするんだけど、そこで1つ揺さぶられた。その次に演劇そのものをそれだけ知るって目線があって、お父さんお母さんが出てきて、そこでは演劇のあり方みたいな事を問われてるって事が面白い。そういう流れの中で最後が来る。ここはやっぱり調べて言ってる事がよくわかるんだけど、ここももっと相対化して欲しいっていうので、いろんな意見が出てるわけですけど、僕的には、あの雄弁な照明が、だんだん消えていくっていうところで、劇場がパフォーマンスを相対化するっていう事をカッコよくやってくれちゃっても良かったんじゃないかという感じはあります。まあ、そういう事はもうすでにやってらっしゃるのかもしれないけどね。
審査員いじりが色々あったので1番心配したのは、実際に審査会やって、あれより面白くなかったらどうしようかと、かなり怯えました。(一同笑う)で、公演当日にやんなきゃなんないのかと思ってたら、昨日はそうでなくて助かったんだけど。そんな諸々、とにかくいろんな形で揺さぶられたので大変面白かったですけどね。

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審査結果

議論のあと、各審査員が全候補者の順位に従って4点~1点の4段階評価で採点を行い、投票。
開票の結果は次のとおりとなった。

取材・文責 広報部 部長 桒原秀一

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